社長のロダン講 ~その11~

 次の施設用の土地を捜してしばらく経ちます。自分にできる人事を尽くしつつ、天命を待ってみようということで、伊勢神宮に参拝してきました。

 

 伊勢神宮には一度参拝したことがあったのですが、内宮の本宮に行ったのみで、本格的なお伊勢詣は今回が初めてになります。正式な作法に則り、外宮を参拝したのち、内宮に向かうことにしました。

 

 本願は神頼みだったのですが、結構感じ入り、感動することが多かったのでブログに綴ってみます。

 

 


 外宮、内宮共にとても厳かな空気に包まれた空間でした。

参拝を終えて改めて感じた一番の感想は、『とても質素』であるということ。

ネガティブな意味ではありません。

域内にある色彩は、木々の緑、社や鳥居の白木と、ほぼ全てが自然の中に存在する色であり、華美な装飾や色彩は全く存在していませんでした。

そして、とても整然としており且つ自然と調和している。質素であり、無駄なものがなく、自然であったのです。

 

 江戸時代よりも以前から、日本人にとっての「お伊勢参り」は生前の悲願の一つだったという事実は、インド人のガンジス河での沐浴とシンクロするような宗教的儀礼のように感じます。昨年見た聖なる河ガンジスは、伊勢神宮と違い極彩色に彩られた街並みの景観が印象的で、且つ、凄まじい程の雑多さを感じました。

しかし、これもネガティブな意味ではありません。

 

 比較対象するというものではなく、違いを知ったという感覚です。そして、その国の人の精神性を感じ入ることができました。

 自然との調和、質素に厳かに、質実剛健な佇まい、凛とした空気、古来日本人の精神に触れるような感じがして、とても心地よく心が引き締まるような感じがしました。

 

 

 そして、感じたことがもう一つ。外宮、内宮共に、本宮に到着するまでに鳥居を何度もくぐるのですが、私もそうであったように、多くの人が往路の鳥居をくぐる前、復路の鳥居をくぐった後に一礼をするんです。

私自身の感覚でいうと、意識して礼をするのではなく、自然と頭が下がるのです。

 

畏敬の念、尊敬の念というのは、自ら作り出すものでも、教育されて学ぶものでもなく、やはり、身体や心が感じるものだと再確認したのです。 感じ入ったその結果の礼儀や対人作法こそが自然なのではないか、と改めて考えました。逆を言うと、人工的に作った尊敬の念や所作は不自然ということになるのではないか?

 

業界的に「接遇研修」なるものが非常に多くあります。勿論、利用者さんのことを100%お客様として捉えると「接遇」は必要なものであり、礼儀作法のトレーニングを積むことの意義もあると思います。

そして、これもネガティブな意味ではありません。各事業所のスタンスは違って当たり前だし、当然だと思います。

 

 利用者さんとの『関わり・繋がり』を、情緒的で人間くさい繋がりまで昇華させることを目標とする我々の価値(観)を鑑みた時に、必要な礼儀は備えつつも、より自然に近づける関係性の構築が必要だなぁ~と、改めて感じた伊勢神宮でした。

 

 

 

 


 しかし、食べ過ぎた・・・。