社長のロダン講 ~その10~

キングスクロス
キングスクロス

 思いついたことを、いつものように徒然に…。

 

 先日新聞で、渋谷区がLGBTに関する条例を施行し、行政レベルで同性カップルに対する承認を進めていくとの記事が掲載されていた。

 

 20年以上前にオーストラリアのシドニーに住んでいたことがある。シドニーはロスに次ぐ世界で2番目にゲイに対する認知が進んでいる都市といわれ、その人数も非常に多い。年1回市内のキングスクロスという都市を中心にマルディグラというゲイパレードが行われるのだが、すごい賑わいをみせていたのを今でも覚えている。パレードを見物し、その場のお祭り気分に浸って楽しんではいたが、やはりLGBTの問題は自分ごとではないと考えていたように思う。

 

 当時、共通の友人を介して非常に仲良くなったGというオーストラリア人がいた。伸長は190を超えていて、筋骨隆々のこれぞアングロサクソンという感じの外見。彼自身が日本文化に非常に興味を持っていたこともあり、お互いがお互いの文化や生活習慣を伝え合う中で非常に仲良くなったのである。私は4人で共同生活をしていたのだが、そのシェアメイト達とも非常に仲良くなり、共に食事をしたり、酒を飲んだりすることも多くなっていった。

 

 そんなこんなで、出会ってから3ヶ月くらい過ぎた頃、Gから「自分はゲイだ。」とのカミングアウトを受けたのである。彼曰く、「お前(私)がストレート(ゲイではない)ということは分かっている。恋愛目的でお前と仲良くなった訳ではない。ただ、ここまで仲良くなって、本当の事を話さないとお前(私)に対する裏切りに感じてしまうから、伝えたかったんだ。」と告白してくれた。人間、これだけ正々堂々と自分を開いて向き合われると、こちらも開いて向き合わざるを得なくなる。

「自分は女性が好きで好きで大好きだ。はっきり言って、今嫌な汗が全身の毛穴から飛び出している。ケツの穴もかなり力んでる。でも、お前(G)がゲイでも友人であることに何ら変わりはない。でも、恋愛関係にはならないぞ。」と向き合った。

 

 そんなカミングアウトを共有した私とGとシェアメイトは更に仲良くなることができた。明け透けにゲイに関することも質問したし、Gはそれにフランクに答えてくれた。

ゲイバーにも多く連れていってもらったし、ゲイ友の繋がりも多くなった。社会から認められない彼らの生きづらさも、ある程度共感として捉えることができるようになった。

 

 そんな中で感じたのは、(表現の仕方が間違っているかもしれないが)ゲイにも非常に多くの系統があり、一種に特定されるものではなくグラデーションのように濃淡を持った個性があることを教わった。

 

 私が長年従事していた、知的障がい者支援の教義の中に「障がいをハンディキャップと捉えるのではなく、個性として捉える」というものがある。この教義の是非はここでは考えないが、考えてみれば「全員が同じ色」というのは非常に奇妙で貧しい価値観だと感じる。そもそも、その「一緒」という基準はどこを基準にしているのか?マジョリティーを基準にした「当たり前の色」という価値観に意味があるのか?

 

 様々な色が混在しバランスをもち調和している絵にこそ、深みや奥深さがあるもんだ。

 

 翻って、自分たちのケアを再考する契機としたい。どんな濃淡をもったグラデーションをも包含できるような豊かなケアを目指していこうと感じたLGBT問題でした。