ロダン講①

僕が取り組ませてもらっているこの仕事は大きな遣り甲斐がある反面、悲しいかな、人との別れに直面することが多い。普段、バカボンのパパと同レベルのことしか考えられない自分にとっても別れの場に遭遇すると、人の生死や人生の意味をよく考えさせられる。

その方、その方の生き様を見てそして別れ目に立ち会う。何度経験しても馴れない辛い体験だ。

「人間は何の為に生きているのか?何のために生まれてきたのか?」そんなことを日々考えてしまう。 

馴れない分、毎回ショックが大きい。

 

 

大学の時に受けた文化人類学の講義で教授が言っていたことを、この職業に就いて痛感する。

 

時代の流れの中で、日本古来の家(結)社会の崩壊が進み核家族化が進む。同居の尊属が1系統以上上に上がらない社会では、人の死は非日常で神秘的でそして非常にショッキングなものとなる。

 

つまりはおじいちゃん・おばあちゃんと同居することが少なくなった社会では、人の死は身近なものでなくなり、極めて非日常のショッキングな出来事として若い世代に影響を与えるということだ。

 

僕がこれまで直面した別れ目は、全てが前触れもなく突然で非情でうまく言えないが、中途というか、途上だったように感じる。

 

やはり、教授の言うように祖父母と同居したことのない僕にとって、人の死はどこか神秘的であり、集大成を期するように準備が整ったなかでの神聖なものというイメージが拭えないのだろう。

 

 

 

 

そして、毎回考える疑問。「人は何のために生まれてくるのか?」

 

生物的な意味でいうならば、間違いなく「種の保存」だ。

 

人間も動物である以上、他と違わず種の保存が生まれる意味だ。

 

人間は他の動物と違い、高度な知能を持った故に生きることの意味を考えるのだろう。

 

そして、そこには答えなんてものはなく、あったとしてもそれは宗教や信仰も含めてその人自身が決めるものなんだろう。

 

 

 

立花隆の『臨死体験』という本を読んだことがある。というか、この著者の本はすべて読んでいる。ロッキード事件を暴いた張本人がこのノンフィクションライターの立花隆だ。この人の本は徹底した事実検証とノンフィクションを基に分析・論述が展開される。

 

『臨死体験』。一度死んだ人が息を吹き替えす。そういう経験をした世界中の人たちを直接取材したルポ集だ。臨死した人達が見聞し、体験したことはその生物的に死んでいる時間の長さにより様々だが、多くの人が共通した経験があるという。念のため、申し上げておくと死の瞬間に見える映像なるものは脳内の残留ドーパミンが見せるものとする学説もあるし、その他の科学的学説は多数ある。ここで書くことをどう受け止めるかは、読んで頂いている方にお任せしたいと思う。

 

光のトンネルの中を進んでいく映像。光のトンネルの先には眩い光があって、その中を早いスピードで自分が進んでいくのを感じるのだという。

 

奥に進むにつれて、自分の体が溶けるように無くなっていくのを感じるのだそうだ。体の一部一部がなくなっていき、そして感情や思考もなくなっていき、感覚もなくなっていくのを感じる。

 

 

そして、最後の最後に残るものがひとつだけある。

 

 

「経験の束(葦)」だけが残るのが判るそうだ。

 

 

パスカルは『人間は考える葦である』と言ったが、あの『葦』のことだ。わらの束みたいな感覚だと著者は書いている。

 

 

今まで、生きてきて経験したこと、達成したこと、それだけが残るのが判るのだという。そして、楽しい充実した努力した成し遂げた束ほど大きくそして、幸せを感じさせると感じるのだという。

 

 

信じる信じないはその人の自由だし、考え方は様々でどれも正解であり、どれも間違っていると言えるかもしれない。

 

 

でも、人との別れ目に出会って落ち込んだ時、僕に関わってくださっている方々に少しでも貢献するという経験の束を増やしていこうと決意するようにしている。

 

 

 

 

 

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コメント: 1
  • #1

    四条作業所 (火曜日, 12 7月 2011 14:29)

    深い